源平の史跡
■一般的に「源平合戦」や「源平の戦い」と呼ばれている「治承・寿永の乱」は、平安時代末期、1180年から1185年の6年間に渡って日本各地で繰り広げられた、源氏と平氏による戦いです。この戦いは、古代最後、中世最初の内乱で、後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)の挙兵を契機に始まりました。当時、平清盛を中心とする平氏が政権を掌握していましたが、以仁王の呼びかけにより各地の武士が打倒平氏のために挙兵。そして、山口県の壇ノ浦で平氏を滅ぼします。
その後、平氏の軍団の一部は九州にも逃れます。その平家落人伝説が筑後地方にもありますので、その史跡をご案内いたします。
筑後地方の源平の史跡
白瀧神社(白滝夫婦木)
白滝神社の御神木、クスの木とムクの木は仲良く絡み合いながら成長しています。クスの木の幹周りは5.5M、高さ約15Mで堂々としています。樹齢三百年とも云われます。
この地は、別称平家堂とも云われ文治元(1185)年、壇の浦の源平の戦いに敗れた残党は、九州奥地に逃走しようとするのを、源氏の追討軍が激戦を行なった時、平家軍には多数の戦死者があり、その慰霊のために建立されたといわれている。
白滝神社の社殿の玉鶴霊社の碑(高さ1M位)は、落武者その若妻の玉鶴姫が、はるばる京より夫を慕いて、当地に訪ねて来て夫の戦死を知り、戦死者を弔った平家塚の前で、自らの手で命を絶った玉鶴姫の悲恋哀話がある。
なお、同所にある井手は別称『赤井手又は、ち井手」と呼ばれ、平家軍追討戦の際、多くの死傷者の流れ出た血により、花宗川が赤く染まったと云われています。
クスの木とムクの木は玉鶴姫と平家の落武者を表しているかも知れません。
一之塚源平古戦場跡
国道208号線横の尾島公民館前に一之塚源平古戦場跡(石柱)と薩摩街道(標柱)が立っています。
壇ノ浦の戦いに敗れた平氏の残党は九州へと落ち延び、平家と縁のある大宰府や久留米へと逃げ込みます。
しかし、源氏の追討の手は緩みません。落人達は筑後市へと逃れますが、ここでも平家は多数の死者を出したそうです。その死骸を集めてこの一之塚が作られました。源氏方は源範頼、塚を築いたのは平宗清との伝承があるようです。(諸説あり)
ここでもまだ生き延びた平氏の落人達はこの後、みやま市山川町要川で源平最後の合戦が行なわれることになります。
要川公園
要川は源平最後の激戦地としての伝承があります。平家栄華の夢破れて壇の浦で滅び生き残った平家ゆかりの者たちは、九州へと落ちのびてきたが、源氏の追討の手に大宰府で破れ、筑後尾島でも破れ、残るわずかの平家は瀬高の本郷を渡ってこの地にたどり着きます。そして天台宗である清水寺の僧兵をはじめ近郊の法師土豪の力添えを得て、ここ要川周辺に背水の陣を敷き決戦をしますが源氏の大軍の前にはなす術もなく、矢つき、刀折れ、残った者はわずか。ある者は山や谷に逃れ、ある者は南を指して逃れ行き、散々に落ちていったと言われています。
公園の少し先には、平家方の物見跡と伝えられている「物見塚(ものみづか)」があり、小高い山にからは遠く野町、竹飯方面まで望むことができます。
七霊の瀧
要川の合戦で敗れた平氏は、散り散りになって落ち延びる以外に道はなく、武将・兵士に混ざって女官達も一緒に逃げましたが 、この地で源氏軍に追いつかれてしまいます。
武将・兵士は切り殺され、その中の女官たち7人は「もはやこれまで」と覚悟を決め、森の中の滝壺に身を投げて亡くなり、里人たちはその死を哀れんで滝のそばにお社を立てて祀ることにしました。それからのち、この滝のことを「七霊の滝」、お社を「七霊宮(しちろうぐう)」と呼ぶようになったとのことです。
また、この7人の女官は滝壺に身を投じたのち、ナマズに化身したとも言われ、この地方ではナマズを食べないという風習も残っているそうです。
六騎神社
壇ノ浦で敗れた平家の落人は、肥後路へも逃避しました。しかし逃れた肥後の五箇荘では山間の生活に耐えかね、また源氏の追及も厳しく、落武者6名隊長難波長(平益信)、加藤藤内(平正勝)、是長多七(平政直)、浦川天ヶ左衛門(平高矩)、鳴神藤助(平親英)、若宮兵七(平清貞) は、柳川沖端に移り住み漁業をはじめたといわれています。当時の人々は平家の身分の高い人たちとして、6名の騎馬武者の意味で「平家の六騎」と称していました。
立花宗茂公が柳河城に復帰すると、有明海の「漁業権」を得て活動するようになります。
こうして「六騎」が沖端漁業の基礎を築いたので漁業者のことを「六騎」と呼ぶようになりました。
また産土神(氏神)をまつることに気づいた「六騎」の一人は伊勢に参り、半鏡を授かった。するともまもなく、この矢留の地から半鏡が発見されたので、伊勢大神宮から授かった半鏡とつなぎ合せてみると、不思議なことに一致し、これは大神宮様のお授けになったものであるとして、天照大神を奉祀したのが矢留大神宮です。
水郷・柳川の川下り
源平の史跡めぐりのあとは柳川の川下りでごゆっくりひと休みはどうでしょう。
川下りが現在のように柳川の観光として定着するようになったのは、昭和30年(1953年)ごろ。
約400年前の江戸時代に、柳川城を築城するために整備された堀割は、当初は生活用水や水上道路として利用され、明治以降はどんこ舟を使った川遊びがさかんに行われるようになりました。
川下りが始まったきっかけは、昭和29年(1954年)に公開された映画『からたちの花』。柳川出身の詩人、北原白秋の少年時代を描いた長谷健の小説が原作の作品で、柳川で撮影が行われ、映画に登場した川遊びが注目を浴びたことを機に、柳川市は2艘のどんこ舟で観光客向けに川下りを始めました。
現在、柳川では5社の船会社が川下りを行っていて、料金は1,500円(中学生以上)。沖端までを巡る内堀コースが一般的で柳川城の土居の景観が残る外堀コース、逆方向に行くコースや短縮コースなど、時間や都合に合わせて選ぶこともできます。